氏子総代のお仕事2024年12月08日 13:32

ここ数年間、氏子総代のお役を頂き、
氏子総代としてのお仕事をしている。
神社にて執り行われる儀礼には、
夫がお役をしている一方、
神社にまつわる費用を集めたり、
お札を配ってまわったり、
近所を訪ねてまわる仕事は、
わたしが、子どもを連れてしていることが多い。

ご近所を訪ねていくときは、
アポイントメントをとっていくわけでないので、
ご不在なこともあり、再度、何度も、
伺うことになることもある。
その方が家におられるタイミングを見計う、
工夫が必要である。
また、自転車や歩いてまわるので、
子どもの状態や天候の具合もみる必要があり、
いつでも、さっと、というわけにはいかない。

それでも、このお役をさせてもらっていることは、
とても有難いことやなあと思う。
氏子総代という立場に立ち、体験しなければ、
みえない世界があるからということがある。
また、この地域を守って下さっている神様を、
なんとなく、思わずにはいられなくなる。

年末も近く、昨日、今日と、お札を配りに行った。
子どもたちの姿をみて、満面の笑みを浮かべてくださる方があったり、
子どもたちに、何か果物を下さる方があったりと、
不思議な交流が生まれる機会になっている。

京都、亀岡で暮らしていた頃、
向いに住んでいた方に、
田舎くらしの作法を、
コトバをこえたもの、身体感覚で、
少しずつ、教わっていた。
その方のお宅に、たびたび伺って、
一緒にお茶をして、何気ないことを話している中に、
生きていく、暮していく、ということの極意のようなものが、
密やかに語られていたのである。
はじめは、その見知らぬ土地で、
何とか暮していかねばならなかったから、
仕方なく、それはそれとして、受け入れていたところだったのが、
その方と一緒にいる時間が長くなってくると、
わたしの身体感覚に変化が起こっていったのである。
暮していくことの面白さ、
脈々と受け継がれてきた叡智のようなものが、
その方より、ダウンロードされていくような感覚があった。
身近にいる、名もなき、聖人と、呼びたくなる、おばあさんであった。

そのおばあさんから離れて、この地で暮らし始めて、
何度も、その方のことをおもった。
教えて頂いたこと、受け継ぎたいこと、
暮らしの中で、少しずつ、実践している。

氏子総代の仕事を、有難くできる自分があるのは、
その方との出合いがあったからである。