「仕事が仕事をしている仕事」 ― 2024年12月04日 13:27
間引き人参の葉っぱをそうじするのが、
このところの、日々の仕事のひとつである。
草にまみれた、やわらかくかわいらしい人参の葉っぱを、
きれいに食べられる状態にしていく。
この季節仕事を10年間ずっとやってきて、
ようやく、手が勝手に動く状態になってきた。
手が仕事を覚えていく。
この季節、朝起きてまずはじめにすることは、
薪に火をつけることである。
アイルランドでつくられたクックストーブスタンレーとの付き合いも、
10年近くなってきた。
部屋を暖め、食材に火を入れ、食器や布巾を乾かしてくれる。
早朝、真っ暗で静かな時間。
やがて子どもたちが起き出してきて、
賑やかな時空へと変わる。
人参葉のそうじも、
薪に火をつけることも、
はじめは、手間のかかる仕事であった。
様々に感情の沸き起こる中でも、
ただ、ただ、やり続けていった。
そして、今、さざ波の如き心持で、
仕事をしている自分に、出合っている。
20代のはじめに出会った、河井寛次郎著『火の誓い』という本がある。
その中にある『いのちの窓』ということばの連なりに、
奥深くの自分がよろこんでいるのを感じ、
何度も何度も、そのことばに会いにいった。
ことばは体験してはじめて、
その意味が不思議な感じで落ちてくる。
「仕事が仕事をしている仕事」
わたしはわたしの体験したい世界があるのだろう。
出来事は容赦なくやってくる。
その意味は追わずともよい。
ひたすら手を動かし、
感覚をひらいていき、
わたしがその瞬間感じたことを、行動していく。
地味な仕事の積み重ねの中に、
宇宙へと通じる道があるなと、感じるから、
わたしは、こういう暮らしをしている。
このところの、日々の仕事のひとつである。
草にまみれた、やわらかくかわいらしい人参の葉っぱを、
きれいに食べられる状態にしていく。
この季節仕事を10年間ずっとやってきて、
ようやく、手が勝手に動く状態になってきた。
手が仕事を覚えていく。
この季節、朝起きてまずはじめにすることは、
薪に火をつけることである。
アイルランドでつくられたクックストーブスタンレーとの付き合いも、
10年近くなってきた。
部屋を暖め、食材に火を入れ、食器や布巾を乾かしてくれる。
早朝、真っ暗で静かな時間。
やがて子どもたちが起き出してきて、
賑やかな時空へと変わる。
人参葉のそうじも、
薪に火をつけることも、
はじめは、手間のかかる仕事であった。
様々に感情の沸き起こる中でも、
ただ、ただ、やり続けていった。
そして、今、さざ波の如き心持で、
仕事をしている自分に、出合っている。
20代のはじめに出会った、河井寛次郎著『火の誓い』という本がある。
その中にある『いのちの窓』ということばの連なりに、
奥深くの自分がよろこんでいるのを感じ、
何度も何度も、そのことばに会いにいった。
ことばは体験してはじめて、
その意味が不思議な感じで落ちてくる。
「仕事が仕事をしている仕事」
わたしはわたしの体験したい世界があるのだろう。
出来事は容赦なくやってくる。
その意味は追わずともよい。
ひたすら手を動かし、
感覚をひらいていき、
わたしがその瞬間感じたことを、行動していく。
地味な仕事の積み重ねの中に、
宇宙へと通じる道があるなと、感じるから、
わたしは、こういう暮らしをしている。
自主保育の世界 ― 2024年12月05日 14:16
自主保育の世界に入ったのは、
もう、そこに入るしかない状況だったからだ。
息子を保育園に預けて、
働きに出ようと思っていた。
それが叶わない状況があった。
息子は生後6か月を過ぎた頃から、
湿疹が出始めて、
1歳の秋を過ぎて、喘息が出始め、
1歳の冬には、重度のアトピーの子になっていた。
顔や頭はドロドロで、
かゆくてかきむしるから、
しょっちゅう、血だらけになる。
加えて、様々なものに対するアレルギーがあったから、
保育園に行かせるという道は、わたしたちにはなかった。
息子2歳の秋、かねてより自主保育をしたいと強くおもっていた人との出会いがあり、わたしは『自主保育』を経験することになった。
自然の中で、出来るだけ制限のない環境の中で、
のびやかに子どもたちが遊ぶ世界がそこにはあった。
わたしは、自主保育に関わることで、
からだも、こころも、ずいぶんと鍛えられた。
息子がいなければ、すぐにやめてしまっていたことだろう。
息子は、保育園にも幼稚園にも行かず、小学生になった。
7歳になった息子をみながら、
自主保育という場の面白さが、じわじわと感じられるようになった。
そもそも、そこにしか道がなかったから入った世界である。
湧き上がる感情にぐらぐらしながら、からだを使い果たしながら、
歯を食いしばってやってきたから、
真っ只中に、たのしむ余裕などなかった。
何が起こるか、何になるのか、
その時には、わからずともいいのだ。
未知の世界に入っていくことは、
未知の自分に出合う、ということだけは、
わかっているから。
もう、そこに入るしかない状況だったからだ。
息子を保育園に預けて、
働きに出ようと思っていた。
それが叶わない状況があった。
息子は生後6か月を過ぎた頃から、
湿疹が出始めて、
1歳の秋を過ぎて、喘息が出始め、
1歳の冬には、重度のアトピーの子になっていた。
顔や頭はドロドロで、
かゆくてかきむしるから、
しょっちゅう、血だらけになる。
加えて、様々なものに対するアレルギーがあったから、
保育園に行かせるという道は、わたしたちにはなかった。
息子2歳の秋、かねてより自主保育をしたいと強くおもっていた人との出会いがあり、わたしは『自主保育』を経験することになった。
自然の中で、出来るだけ制限のない環境の中で、
のびやかに子どもたちが遊ぶ世界がそこにはあった。
わたしは、自主保育に関わることで、
からだも、こころも、ずいぶんと鍛えられた。
息子がいなければ、すぐにやめてしまっていたことだろう。
息子は、保育園にも幼稚園にも行かず、小学生になった。
7歳になった息子をみながら、
自主保育という場の面白さが、じわじわと感じられるようになった。
そもそも、そこにしか道がなかったから入った世界である。
湧き上がる感情にぐらぐらしながら、からだを使い果たしながら、
歯を食いしばってやってきたから、
真っ只中に、たのしむ余裕などなかった。
何が起こるか、何になるのか、
その時には、わからずともいいのだ。
未知の世界に入っていくことは、
未知の自分に出合う、ということだけは、
わかっているから。
鉛筆を削る ― 2024年12月06日 13:07
息子が小学生になって、
息子の鉛筆をカッターで削る日々になった。
母がカッターで削ってくれていたから、
そういうものなのかなと思って、
自分もカッターで削りはじめただけのことである。
うちは自営業で、母も忙しく働いていたから、
鉛筆削り器で削ったら、
少しはラクであっただろうに。
子ども、三人分の鉛筆を削っている母の背中には、
執念のようなものがあったなと、思い出されてくる。
ふと、学校で筆箱を開いたときの自分の感覚が蘇る。
母の削った鉛筆をみて、何かほっとした感覚があったなと。
母の削った鉛筆が、自分のお守りのようになっていたのだなと、
今の自分が理解した。
「母」という「いきもの」に、自分も今、なっている。
あの時の母の、何としても鉛筆は自らの手で削るのだという、
覚悟のような、強いおもいは、
「母」たるものに宿る、愛のひとつのかたちであったのだろう。
息子の鉛筆をカッターで削る日々になった。
母がカッターで削ってくれていたから、
そういうものなのかなと思って、
自分もカッターで削りはじめただけのことである。
うちは自営業で、母も忙しく働いていたから、
鉛筆削り器で削ったら、
少しはラクであっただろうに。
子ども、三人分の鉛筆を削っている母の背中には、
執念のようなものがあったなと、思い出されてくる。
ふと、学校で筆箱を開いたときの自分の感覚が蘇る。
母の削った鉛筆をみて、何かほっとした感覚があったなと。
母の削った鉛筆が、自分のお守りのようになっていたのだなと、
今の自分が理解した。
「母」という「いきもの」に、自分も今、なっている。
あの時の母の、何としても鉛筆は自らの手で削るのだという、
覚悟のような、強いおもいは、
「母」たるものに宿る、愛のひとつのかたちであったのだろう。
夫不在の一日におもう。 ― 2024年12月07日 10:26
本日、夫が不在のため、コーヒーのない朝である。
毎朝、夫は、自ら焙煎したコーヒーを淹れている。
しまなみの島で、備長炭を焼いている方との出合いがあり、
備長炭で焙煎するようになった。
わたしは、農家の嫁になった。
京都・亀岡で暮らしていたころは、
夫は、畑のひとであり、伝説の農家でもあった。
しまなみ大島、ビッグアイランドに移ってから、
流れが、わたしたちを、思いもよらない方へ連れていきつつある。
思いもよらない方というのは、こちらの思考の納得する範囲の話で、
その流れというのは、実は、わたしたちがそのようにしたいと、
自ら意図してきたものの通りに、なっているだけの話かもしれない。
畑のある暮らしは、土台にあるけれど、
そこから、不思議なひろがりが起こっている。
夫は最近、コーヒー屋にもなった。
自ら焙煎したコーヒー豆をつかって、
コーヒーを淹れる。
呼ばれたら、コーヒー屋として、出張する。
呼ばれなくても、コーヒー屋として、出没する。
夫の淹れるコーヒーは、
すっきりとしていると、よく言われる。
「ああ、おいしかった」と、気が付けば、飲みほしてしまっている。
夫の淹れたコーヒーを飲んでいると、
コーヒー豆は、もともと、薬であったのだということが感じられる。
知らぬ間に、治癒の起こっているような、そういう飲み物。
からだの作用だけでなく、タマシイに作用するような。
夫は明日、大きなお土産を連れて帰ってくる。
このひとはきっと、地球に遊びに来たんだなと思う。
毎朝、夫は、自ら焙煎したコーヒーを淹れている。
しまなみの島で、備長炭を焼いている方との出合いがあり、
備長炭で焙煎するようになった。
わたしは、農家の嫁になった。
京都・亀岡で暮らしていたころは、
夫は、畑のひとであり、伝説の農家でもあった。
しまなみ大島、ビッグアイランドに移ってから、
流れが、わたしたちを、思いもよらない方へ連れていきつつある。
思いもよらない方というのは、こちらの思考の納得する範囲の話で、
その流れというのは、実は、わたしたちがそのようにしたいと、
自ら意図してきたものの通りに、なっているだけの話かもしれない。
畑のある暮らしは、土台にあるけれど、
そこから、不思議なひろがりが起こっている。
夫は最近、コーヒー屋にもなった。
自ら焙煎したコーヒー豆をつかって、
コーヒーを淹れる。
呼ばれたら、コーヒー屋として、出張する。
呼ばれなくても、コーヒー屋として、出没する。
夫の淹れるコーヒーは、
すっきりとしていると、よく言われる。
「ああ、おいしかった」と、気が付けば、飲みほしてしまっている。
夫の淹れたコーヒーを飲んでいると、
コーヒー豆は、もともと、薬であったのだということが感じられる。
知らぬ間に、治癒の起こっているような、そういう飲み物。
からだの作用だけでなく、タマシイに作用するような。
夫は明日、大きなお土産を連れて帰ってくる。
このひとはきっと、地球に遊びに来たんだなと思う。
氏子総代のお仕事 ― 2024年12月08日 13:32
ここ数年間、氏子総代のお役を頂き、
氏子総代としてのお仕事をしている。
神社にて執り行われる儀礼には、
夫がお役をしている一方、
神社にまつわる費用を集めたり、
お札を配ってまわったり、
近所を訪ねてまわる仕事は、
わたしが、子どもを連れてしていることが多い。
ご近所を訪ねていくときは、
アポイントメントをとっていくわけでないので、
ご不在なこともあり、再度、何度も、
伺うことになることもある。
その方が家におられるタイミングを見計う、
工夫が必要である。
また、自転車や歩いてまわるので、
子どもの状態や天候の具合もみる必要があり、
いつでも、さっと、というわけにはいかない。
それでも、このお役をさせてもらっていることは、
とても有難いことやなあと思う。
氏子総代という立場に立ち、体験しなければ、
みえない世界があるからということがある。
また、この地域を守って下さっている神様を、
なんとなく、思わずにはいられなくなる。
年末も近く、昨日、今日と、お札を配りに行った。
子どもたちの姿をみて、満面の笑みを浮かべてくださる方があったり、
子どもたちに、何か果物を下さる方があったりと、
不思議な交流が生まれる機会になっている。
京都、亀岡で暮らしていた頃、
向いに住んでいた方に、
田舎くらしの作法を、
コトバをこえたもの、身体感覚で、
少しずつ、教わっていた。
その方のお宅に、たびたび伺って、
一緒にお茶をして、何気ないことを話している中に、
生きていく、暮していく、ということの極意のようなものが、
密やかに語られていたのである。
はじめは、その見知らぬ土地で、
何とか暮していかねばならなかったから、
仕方なく、それはそれとして、受け入れていたところだったのが、
その方と一緒にいる時間が長くなってくると、
わたしの身体感覚に変化が起こっていったのである。
暮していくことの面白さ、
脈々と受け継がれてきた叡智のようなものが、
その方より、ダウンロードされていくような感覚があった。
身近にいる、名もなき、聖人と、呼びたくなる、おばあさんであった。
そのおばあさんから離れて、この地で暮らし始めて、
何度も、その方のことをおもった。
教えて頂いたこと、受け継ぎたいこと、
暮らしの中で、少しずつ、実践している。
氏子総代の仕事を、有難くできる自分があるのは、
その方との出合いがあったからである。
氏子総代としてのお仕事をしている。
神社にて執り行われる儀礼には、
夫がお役をしている一方、
神社にまつわる費用を集めたり、
お札を配ってまわったり、
近所を訪ねてまわる仕事は、
わたしが、子どもを連れてしていることが多い。
ご近所を訪ねていくときは、
アポイントメントをとっていくわけでないので、
ご不在なこともあり、再度、何度も、
伺うことになることもある。
その方が家におられるタイミングを見計う、
工夫が必要である。
また、自転車や歩いてまわるので、
子どもの状態や天候の具合もみる必要があり、
いつでも、さっと、というわけにはいかない。
それでも、このお役をさせてもらっていることは、
とても有難いことやなあと思う。
氏子総代という立場に立ち、体験しなければ、
みえない世界があるからということがある。
また、この地域を守って下さっている神様を、
なんとなく、思わずにはいられなくなる。
年末も近く、昨日、今日と、お札を配りに行った。
子どもたちの姿をみて、満面の笑みを浮かべてくださる方があったり、
子どもたちに、何か果物を下さる方があったりと、
不思議な交流が生まれる機会になっている。
京都、亀岡で暮らしていた頃、
向いに住んでいた方に、
田舎くらしの作法を、
コトバをこえたもの、身体感覚で、
少しずつ、教わっていた。
その方のお宅に、たびたび伺って、
一緒にお茶をして、何気ないことを話している中に、
生きていく、暮していく、ということの極意のようなものが、
密やかに語られていたのである。
はじめは、その見知らぬ土地で、
何とか暮していかねばならなかったから、
仕方なく、それはそれとして、受け入れていたところだったのが、
その方と一緒にいる時間が長くなってくると、
わたしの身体感覚に変化が起こっていったのである。
暮していくことの面白さ、
脈々と受け継がれてきた叡智のようなものが、
その方より、ダウンロードされていくような感覚があった。
身近にいる、名もなき、聖人と、呼びたくなる、おばあさんであった。
そのおばあさんから離れて、この地で暮らし始めて、
何度も、その方のことをおもった。
教えて頂いたこと、受け継ぎたいこと、
暮らしの中で、少しずつ、実践している。
氏子総代の仕事を、有難くできる自分があるのは、
その方との出合いがあったからである。
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